草創期

第一次草創期ルーツは庶民に愛された芝居小屋

開道50年を迎えたこの年、札幌では北海道博覧会が華々しく開催された。街路に初の路面電車が走り、商店街や百貨店に庶民が詰めかけるなど、札幌の街は新たな時代を迎えていました。

その年、初代社長・須貝富安の父で、須貝興行の創始者である須貝富蔵は、SDエンターテイメントの原点となる実演劇場「札幌館(のちの札幌劇場)」を設立します。(注1)

当時は畳敷きの芝居小屋で、地回りの歌舞伎や新派の人情物などを上演。また、公民館のような公共の劇場施設がまだない時代のため、選挙の演説会など公的な行事にも利用されていました。

興行の手腕に長けた富蔵は、札幌館設立の10年後に劇場を新築。同時に、小樽や函館など道内の主要都市にも劇場を設立し、経営規模を拡大していきます。

このほか、富蔵は道内を巡業する歌舞や浪曲、歌謡大会などの興行業務も手がけ、さらに、相撲の勧進元として札幌場所を主催し、祭典興行やサーカスの興行を取り仕切るなど、北海道興行界の大立者の一人となっていきます。

(注1)映画上映に対して、実演は舞台で演じたり歌ったりすることを指す。

第二次草創期戦時下の人々に与えた暮らしの潤い

アメリカとの戦争が始まったことで、洋画の上映は禁止され、邦画も娯楽性に乏しい作品が主流となっていきました。そのため、映画よりも歌舞伎や芝居、浪曲などの実演が人気を集めました。富蔵は、戦時中に設立された同業者組合の初代理事長に就任し、業界全体の旗振り役となっていきます。

一方、富安は大学在学中に海軍予備学生に志願し、輸送船を護衛する海防艦に乗務。敵の魚雷攻撃に遭うなど命がけの日々が続くなか、韓国の釜山で敗戦を知ります。

戦後、札幌劇場は実演専門館として、歌舞伎や新派の興行、浪曲、歌謡ショーなどを上演。戦地から戻った富安は、富蔵が健在だったことから、各種学校「札幌文化専門学院」の開校に参画します。

その2年後、学制改革により学院はいったん閉校し、富安も運営から手を引きます。しかし、教員たちの努力でのちに学院は、現在の札幌学院大学へと発展していきました。

発展期

第一次発展期先取った戦後の映画ブーム

戦後まもない1948年(昭和23)、創業者である須貝富蔵が亡くなり、息子の富安が須貝興行の跡を引き継ぎました。当時の札幌は、多くの映画館が進駐軍に接収され、上映館が不足しており、松竹の要請で札幌劇場を貸し出し、松竹直営の邦画封切館となりました。

しかし、洋画の時代が到来することを見抜いた富安は、札幌劇場の建て替えを決意。1952年(昭和27)、市内の映画館としては戦後初となる、鉄筋造3階建・冷暖房つきの劇場を自己資金で新築。洋画封切館に転換するや否や、「風と共に去りぬ」を大ヒットさせ、経営を軌道に乗せました。

時代は映画黄金期を迎えていました。富安は1954年(昭和29)、興行界の古い体質からの脱却を目指し「須貝興行株式会社」を設立、代表取締役社長に就任します。お客様の娯楽を通じ「生きる喜びと感動を提供する」を経営理念に、経営の近代化を進めました。そして、事業の拡大を目指し、室蘭・旭川・釧路・函館など道内主要都市に、次々と映画館を開館。その結果、道内洋画経営のトップに躍り出て、道内興行界に確固たる地歩を築きました。

1958年(昭和33)にピークを迎えた国内の観客動員数でしたが、以降はテレビの普及などにより、急速に観客数が減少。テレビとの差別化を図るため、映画界はスクリーンの大型化や音響効果の向上に努め、札幌劇場もいち早く70mm上映システムを導入し、次々に大作を上映しました。

第二次発展期ボウリングブームに乗り拡大路線へ

1963年(昭和38)、全国の映画館観客動員数は、5年前の半数以下まで落ち込んでいました。そんな映画興行に代わる新たな事業を模索していた富安は、東京で流行し始めていたボウリングに目をつけます。

米・ブランズウィックのボウリング機械を扱う商社の協力を得た富安は、待望のボウリング事業に着手します。1964年(昭和39)、第1号の「旭川ボウリングセンター」をオープン。道内で4番目、札幌以外では初となる施設でした。

高度経済成長の波に乗り、間もなく北海道にもボウリングブームが巻き起こります。これを好機とみた富安は、道内主要都市に次々とボウリング場をオープン。余勢を駆って、1967年(昭和42)には山形県米沢市と秋田県大館市にも進出し、初めて道外に営業エリアを拡大しました。

オープンした施設はどれも大入り満員の状態が続き、朝から晩まで客足の途切れることはありませんでした。当時、映画の入場料は400円ほどでしたが、ボウリングは1ゲーム250円で、1レーンあたり1日平均50ゲームにもなったことから、業績は急成長します。

1965年(昭和40)3月期には2億円に届かなかった売り上げが、72年(昭和47)3月期には25億円を超えます。好調な業績を背景に、札幌劇場を取り壊して複合レジャービルを新築。釧路や旭川にも複合レジャービルをオープンするなど、拡大路線を走りました。

混迷期

混迷期失速したボウリングブーム

隆盛を極めたボウリング人気でしたが、1972年(昭和47)後半からその勢いにかげりが見えはじめます。最盛期に新規参入が相次ぎ、ボウリング場の建設ラッシュが続いた結果、超供給過剰の状態に陥いりました。そのため、当社施設の業績も急速に悪化していきます。

そこへ、1973年の第1次オイルショックによる物価高騰が追い打ちをかけ、ブームは急速に過ぎ去ります。国内各地のボウリング場は相次いで閉鎖に追い込まれ、業界は壊滅的なダメージを受けました。

ここまで順調に成長してきた当社もその影響は免れず、1973年3月期に初の損失計上に追い込まれました。この事態を乗り切るため、1977年(昭和52)までに15センターあったボウリング場の8割を閉鎖するという、大規模なリストラ策を進めました。

閉鎖したボウリング場は、主に資産の売却や賃貸、あるいは洋画の大ヒットが続き収益性の改善された映画館へ業態転換するなどして、業績の改善に努めました。その結果、売上高は1974年3月期を底に、徐々に回復していきます。

拡大期

第一次拡大期インベーダーゲームとビリヤードで復調

1978年(昭和53)、ゲーム機「スペースインベーダー」が爆発的にヒットしたことで、全国各地にゲームセンターが乱立。インベーダーゲームのブームに乗り、当社も売上が回復傾向にあったボウリング場に附帯する形でゲームセンター事業を展開していきます。

1981年(昭和56)からは、閉鎖中または細々と営業を続けていた他社のボウリング場を次々に買収。ゲーム場などとの複合型ボウリング場としてリニューアルオープンさせていきます。

売上も順調な伸びを示し、1974年(昭和49)3月期には10億円まで落ち込んだ売上高が、1984年(昭和59)3月期には一時、30億円を突破するまでになりました。

さらに1986年(昭和61)頃から、映画「ハスラー2」のヒットなどにより、ビリヤードが一大ブームとなり、ファッショナブルなチェーン店も登場し、若者が集まるスポットとして人気を集めました。

当社も1986年(昭和61)11月、札幌須貝ビル内のビリヤード場を、ポケットビリヤード中心の大型施設にリニューアル。道内のビリヤードブームに先鞭をつけ、これを端緒に1988年(昭和63)春まで、ビリヤード場を各地に急展開していきます。

第二次拡大期健康的なアミューズメント施設へ

1988年(昭和63)後半に失速したビリヤード・ブームに代わり登場したのが、カラオケボックスでした。この新しいスタイルのレジャーは、一大ブームを巻き起こし、やがて定着します。

一方、1985年(昭和60)の風営法施行以降、ゲーム業界は女性やファミリーにも利用しやすい、健康的で明るいアミューズメント施設への脱皮を図った結果、1990年(平成2)頃から、「UFOキャッチャー」を筆頭とする、ぬいぐるみが景品のクレーンゲームが大流行しました。

こうした流行の変化に対応するため、当社もビリヤード場をカラオケスタジオやゲーム場へ転換。さらに、映画館へのゲーム場併設と、ビジュアル化が進む最新ボウリング機器の導入を進めました。

中でも積極的に行ったのが、ゲーム場の拡大・導入でした。1992年(平成4)3月期には、ゲーム場の売上だけで21億円に達し、ボウリング場の17億円を上回る、新たな経営の柱へと成長していきます。

なかでも、1993年(平成5)にオープンした全国最大規模のアミューズメント施設「SDエンターテイメント白石」は、初年度9か月間で17億円を売り上げました。

全体の売上高もこの時期に急拡大し、1988年(昭和63)年3月期に33億円だったものが、1993年(平成5)3月期には約2倍の67億円に達しました。

第三次拡大期株式公開で新規大型施設を積極出店

1995年(平成7)、40年余りにわたって親しまれてきた「須貝興行」の社名を変更。21世紀への飛躍を期して、「スガイ・エンタテインメント」に改称。

同年、シネマコンプレックスの時代を迎え、札幌須貝ビルの映画館を一時閉館して大幅リニューアル。上映館を6~8階に集め、道内初の本格的シネコンをオープンしました。

1996年(平成8)には株式を店頭登録し、約9億円の資金調達に成功。これを原資に、道内各地への新規アミューズメント施設の出店を加速させました。

同時に、大型小売店との提携も積極的に進め、1996年(平成8)に「スガイテイネ」を西友と共同出店。続いて、イトーヨーカ堂との一体施設(札幌市)や、帯広の大型ショッピングセンター内への出店などを相次いで行いました。

 

成熟期

第一次成熟期新グループのもと事業エリアを全国に拡大

1990年代半ばから当社は、最新のテクノロジーとオペレーションノウハウを投入し、競争力の高い大型複合レジャー施設の開発・展開を進めてきました。しかし、2000年(平成12)以降は景気の低迷が長期化したことから、新規大型店出店を抑制し、低コスト運営や低採算施設のスクラップを行うなどして、財務体質の改善に努めました。

そうした中で、アミューズメント事業に加わる、新たな事業の柱として着目したのが、ビデオなどのレンタル・リサイクル事業でした。そのノウハウを得るため、株式会社ゲオ(現・株式会社ゲオホールディングス)とFC契約を締結し、新規事業に乗り出します。

これをきっかけに両社の関係が深まり、2005年(平成17)8月に業務資本提携を結び、同年9月には株式のTOBによって、株式会社ゲオが当社の親会社となりました。この業務資本提携は、両社が持つノウハウやインフラの相互利用などによる相乗効果を狙ったものでした。

業務提携後は、ゲオ店舗へのゲームコーナー併設を進めるなど、インフラの相互利用を進め、2009年(平成21)には、社名をスガイ・エンタテインメントから「株式会社ゲオディノス」に変更し、両社のつながりは確固たるものとなりました。

しかし、2008年(平成20)のリーマン・ショックを機に、世界的な金融危機が発生。わが国も景気低迷に陥り、売上は減少傾向に転じます。こうした状況下、2009年(平成21)にゲオグループのレジャー施設事業が当社に一本化され、GAME事業・カフェ事業・フィットネス事業を譲受。これにより、事業や収益の柱が増え、事業エリアも全国へと拡大しました。

2011年(平成23)に発生した東日本大震災は、日本経済に大きなダメージを与え、さらに、欧州政府の債務危機などもあって、厳しい景況が続きます。当社も不採算店の閉鎖及び業種転換を実施するとともに、社内に新たに業務本部を設置し、運営部を5つに組織変更するなどの組織改革を進め、収益の強化に取り組みました。

第二次成熟期RIZAPグループの一員に

2014年(平成26)1月、親会社が株式会社ゲオホールディングスより、健康食品や美容関連商品を扱う「健康コーポレーション株式会社(現RIZAPグループ株式会社)」に変わりました。

同年4月には、当社旗艦店であるディノス札幌中央内に「RIZAP札幌SDエンターテイメント店」をオープン。続いて同年5月には、「健康コーポレーションとの戦略的事業資本提携」に基づき、当社の強みを生かした、健康グループとのシナジー効果を目指した経営方針を策定。さらに同年7月には、社名を株式会社ゲオディノスから「SDエンターテイメント株式会社」に変更し、ブランド名「SDエンターテイメント」を復活させました。

2015年(平成27)には、健康コーポレーションから譲り受けた、コールセンターなどの通信事業やソフトウェア販売事業、介護事業などを営むエムシーツー株式会社と子会社3社、並びに介護事業と通信事業を営む株式会社フォーユーとその子会社を、ともに連結子会社化しました。これにより、一層の業容拡大と既存事業との連携を図っています。

アミューズメント業界の低迷が長らく続く中、コスト削減と体質改善を進めながら、組織横断的な施策として顧客基盤の見直しにも取り組んでいます。再来場の促進を狙ったスマートフォンアプリ「ディノスアプリ」のリリースや、ポイントカード会員システムの一新により、顧客管理の一層の強化を進めています。

飛躍期

飛躍期皆さまの暮らしに「健康」と「喜び」を

大正期の創業から来年で100年を迎える当社は、100年企業としてさらなる飛躍を期し、成長戦略を加速させています。

シニア人口の増加に伴い、今後も拡大が継続すると見込まれるフィットネス事業については、複合商業施設との共同出店や自社保有施設内への新規出店などを積極的に展開する予定です。
こうした中、2017年10月にSDフィットネスが地元北海道札幌に初上陸。最新設備と上質な空間を提供するSDフィットネス+(プラス)札幌白石店として営業を開始いたしました。

一方の柱であるGAME事業では、集客力のあるクレーンゲームの新型機を集中投下するとともに、量販店やスーパーなどの遊休スペースにゲーム機5~10台を設置・運営する「チョイ置き」モデルの出店を推進しています。

また保育事業については、東京都内と横浜に各2拠点を開設した、放課後デイサービスと認可外保育事業が黒字化を達成。今後は、企業主導型保育事業の制度を活用した新施設の開設を進め、放課後デイサービスの増設も視野に入れています。

グループが一体となってシナジーを追求しながら、次の100年に向けた飛躍を目指す私たち。すべては創業の原点である皆様に「生きる喜びと感動を提供する」こと。その追究と実現に向けて役員、従業員一同、事業に取り組んでいくことをお約束いたします。